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彫刻家の大黒貴之(@takayuki_daikoku)です

人生を歩んでいると必ず出会いと別れがあります。出会いの分だけ別れがあると言っても過言ではありません。人は、誰かと出会うことに対しては積極的になりやすいですが、よっぽど嫌な人でない限りは進んで別れたいと思うことはそれほど多くはないでしょう。卒業、引っ越し、失恋、永遠の別れなど大切な人や愛している人たちとの別れは特に切なく悲しさを伴うものです。

なぜ人は大切な人がいなくなると悲しさ寂しさを覚えてしまうのでしょうか?
今回のテーマは、アートの世界でもしばしば議題となる「存在」についての思索にもなるかと思います。


Photo by Sandy Ravaloniaina on Unsplash

人と別れる時に感じる心にポッカリと穴が開いた空虚感

テレビやネットで俳優などの著名人が亡くなったというニュースをよく目にします。しかし著名人が亡くなっても、自分に直接関係がなければ、深く哀しみを憶えることはそうそうないと思います。「あっ、あの俳優さん、亡くなったんだ!」って驚く人が大半なのではないでしょうか。自分にとって、親しい人、ただの知り合いの人、また名前を知っているだけの人がいなくなったときの感情は違います。それは非常に苦しい精神的ショックとそれが落ち着くまでには長い時間を要することになります。

大切な人や好きな人との別れによって心の中がポッカリ開いたような感覚に陥ってしまいます。そして時間が経って、フッとした瞬間にその空虚感のような寂しさがフワッとこみあげてくるのです。それは、その人にもう会えなくなるという悲しさだけでなく、何か自分の一部がなくなったような感覚と言ってもいいかもしれません。この心の一部が空白になってしまうような感覚はどこからやってくるのだろうと何度も自分に問うたことがあります。

文筆家、池田晶子氏の著書「14歳からの哲学」の中で「人はなぜ自分の大切な人がいなくなると寂しいのか、悲しいのか」という問いを立てていました。彼女によると「それは自分がその人の中に反映されているから」だといいます。自分の存在が第三者の中に入り込んでいる。つまり、自分にとって大切な存在が自分の前からいなくなってしまうことは「自分の一部が無くなってしまう」ことと同等なのだと彼女は論じます。

その事に対して、悲しくなる、或いは寂しくなるのだと。

その対象は人間だけはなく家族として暮らしている動物や思い出のある物に対しても同じことではないかと私は考えます。


Photo by Duy Pham on Unsplash

デカルトは「我思う、故に我在り」という言葉を残しましたが、我の存在は、曖昧なものなのかもしれません。我と他者の存在の境界線はどこにあるのでしょうか。池田氏によると、我が死んでも他者の中に我は生き続けることになり、死という現象はなくなるといいます。そう考えると、生と死は等価であると言えるのかもしれません。

大切な人や好きな人は、あなたに対して大きな影響を与えていました。彼女/彼らは、あなたの心を形成する大切な存在であったと思います。その人は他者であるけれども、同時に自分でもあったのではないでしょうか。家族、友人、憧れのミュージシャン、仕事の同士、飼っているペット、愛着のある大切な手帳、風景、植物、生まれ育った土地、語り合った時間、一緒に流した涙、一緒に笑ったこと、共有した長い時間の中でその人やモノに自分の存在を乗せていたのです。あなたにとって大切な存在がなくなったということは「大切な我(自分)の存在がなくなった」ともいえるのではないでしょうか。同じように、あなたの存在の一部はあなたのことを大切に感じている人の一部でもあるのです。

人生には幾度もの出会いと別れがあります。大切な人との別れがなぜこんなにも悲しく切ないんだろうって思ったことが自身も何度もありました。

池田晶子氏が眠る青山墓地を訪れた記録

2020年2月、私は池田晶子氏が眠る青山墓地へ一人向かいました。
その時の私の短い手記です。

「2月にしては暖かさを覚える日で、歩いているとジワリと汗ばんでくる。東京の摩天楼がまるで墓地を包み込むように四方に広がっている。青山墓地の中には、いくつかのベンチがあり休憩場所になっている。そこでお弁当を食べたり、本を読んだりしている人がいることに少し驚いた。私の中にある墓地のイメージにはそのような光景がないからだ。

人は自分の経験や知識にない事象を目の当たりにすると、驚きや戸惑い、或いは不安を覚える。摩天楼とその光景が視界に入ってくる中、この空間の時間だけが止まっているように感じる。摩天楼はごうごうと「生」のエネルギーがみなぎり、墓地にはただただ「死」の沈黙が張り詰めている。

墓地に入ってからどのくらいの時間が経っただろうか。ようやく見つけた彼女の墓地の前に立つことができた。「14歳からの哲学」を読んだのは、確か学生の頃だったと記憶している。それから彼女の他の著書を読んだり、出演していた番組を見たりもしたが、なぜか先述の言葉が今も強く脳裏に残っている

彼女が残した墓碑銘が目に映る。」

 

「さて死んだのは誰なのか」

 

 


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↑出会いの分だけ別れがあります。人とは出会うべくして出会い、
別れるべくして別れていくのだと思います。まるで引力のように。


↑「なぜ私たちは死ななければならないのか?」という疑問を、
生物学的見地から縺(もつ)れた紐を解くように解明していく小林武彦氏の名著からの思索です


参考文献

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