「一本松の記憶」 手記:2011年12月 陸前高田市を訪れて

      2016/03/11

2011年12月12日 瓦礫だらけの田んぼと静かな海

陸前高田市を訪れて-2011年12月-05
朝、8時過ぎに陸前高田市のボランティアセンターに到着する。

現場での説明を受けた後、
今日、手伝いをさせてもらう方の現場へ向かった。

現場に向かう途中、高田松原の前の道を通った。

約1800軒あった家はなくなって、
土の色と数メートルになる瓦礫の山が出来ていた。
瓦礫の山からは、砂ぼこりが俟っているののか
それとも、自然発火したのであろうか
煙のようなものが立っていた。

瓦礫の上では、パワーシャベルが動き、煙を抑えるため人力で水を撒いていた。

5階建てのアパートは4階までの部屋ほぼ全て、こちらから向こう側の外が見えている。

陸前高田市を訪れて-2011年12月-02
右手には、三角形の屋根をした道の駅やナイト用に使われる競技場のライトが4本見える。

目の当たりにして実感する津波の爪痕の大きさ

陸前高田市を訪れて-2011年12月-02
無農薬農家を営んでいるの方の田んぼに到着する。

田んぼの前で彼のお母さんが立っていて、津波当時の話を少し聴かせていただいた。

当初、地震が起こったあと、状況が把握できず動けなかった。

隣に住んでいる人たちがたまたま家の前に来てくれて一緒に逃げたという。

振り向くと津波の高さは海の周囲に見える山と同じくらいの高さだった。

後ほど、おおよその高さを聞いたら、18mとも20mともいうことだった。

浜に面したところに建っている3階建ての鉄筋の建物は、
赤い柱がむき出しになり周囲には瓦礫がまとわりついていた。

その向こうに見える小高い山の松は塩かかぶり
葉は茶色くなって、立ち枯れをしている状態であった。

僕が見ている海は、とても静かで水平線を引いていた。

傷だらけの田んぼ

陸前高田市を訪れて-2011年12月-03
圃場に入り、田んぼの中に埋まっている瓦礫の撤去や
ガマ草の根っこの除去、無農薬栽培に使うステンレスのカプセルを探す作業をした。

圃場からは、ガラスや食器の破片、カセットレコーダ、
道路のアスファルトの破片、石などが出てくる。
これらを取り除かないと苗を植える前の代掻きが危なくてできない。

作業を始めて、20分くらいしてからボランティアの依頼者の方が来た。

この圃場は無農薬で作っているということや
隣の3枚の田んぼは、津波で塩が被った後、瓦礫を撤去した後に
苗を植え、刈取りまでをやったという話しを聴いた。

昼になって、作業をしていた向かい側にある場所で
彼が薪で火を焚いてくれた。

その周囲にボランティアのみんなが座って
コンビニで買ってきたパンやおにぎりをかじり
彼の話に耳を傾けていた。

10年後を見据える農家の眼差し

陸前高田市を訪れて-2011年12月-04
僕たちが座っていた場所には、以前、家があった場所だった。

「震災直後は、何もすることがなくてここでこうやって火を焚いてぼっとしていた」

と彼が言った。

「もう一度、鍬をもって無農薬の田んぼを一から作るんだ」

そんな話を聴いていると、時間はアッと今に過ぎていた。

そのあと午前の作業の続きをして、15時前に現地を出発した。

自分の道は自分で築いていくという人柄を感じた。

津波でなにもなくなってからも、
やっぱり今の農業には無農薬が必要だ。

そのためには、自分が先ずやらなきゃといって、彼は10年後を見据えていた。

 

2011年12月13日 一本松とその周辺

2011年12月、陸前高田市を訪れた際、
「高田松原を守る会」の鈴木会長と一緒に
一本松の周辺を歩きながら、地震が起こった当時のことや
津波に残った松について、お話しを聴かせていただいた。

陸前高田市 一本松 201112-02

2011年12月13日 (火曜日)国道45号線にて

一本松が見える国道45号線で、僕は「高田松原を守る会」の鈴木会長を待っている。

青い空が見えていたが、北からの冷たく強い風が海に向けて吹きすさんでいる。

到着後まもなく、彼は50ccの小さなバイクに乗って現れた。

一本松は、ここから車で5分ほどのところに立っている。

津波で7万本のうち3本の松が残ったという。
そのうち、2本の大きな松が海岸沿いに立っている。

しかし、枝葉がある完全な状態で残ったのはこの松だけだった。

だからその松は「奇跡の一本松」だと言われている。

陸前高田市 一本松 201112-01

震災後、一本松を延命させるため様々な試みが日本緑化センターや
日本造園建設業協会の指導のもと行われたが、12月初旬、保護が断念された。

しかし、この一本松から採取した接木のうち4本が根を張り、
そして地震前に集められていた松ぽっくりからも芽が出てきているという。

陸前高田市 一本松 201112-09
この松のように大きく、かつ、枝が水平に美しく伸びるのには300年ほどかかるという。

僕の前には、立ち枯れしていくとは思えない、
高さ約28m、幅80㎝、幹の周囲が3m近くある
巨木がそびえ立っていた。

視点を待つの根元に下すと
そこには、小さなお地蔵さまが祀られていた。

陸前高田市 一本松 201112-03

残っていたもう一本の松

「このまま、あちらに立っているもう一本の松に向かいましょう!」

一本松から東に300m離れたところに立っている幹しかない松を鈴木会長は指さした。

臨時堤防の上から見る海には昨日と同じようにやっぱり穏やかな水平線が見えている。

陸前高田市 一本松 201112-04

僕たちが今、海に向かって歩いている浜辺はかつて松原が立ち並んでいた。

東西2kmにわたり、南北の幅は最大で200mあったという。

振り向くと松の根がむき出しになっていた。

2mはあるだろうか。

陸前高田市 一本松 201112-05

まるで「そういうカタチのモノ」が、元々そこにあったような錯覚に陥った。

息を飲んでその松の根を観ている僕に

「ベルリンの人にもこの津波の恐ろしさを伝えてください」

と鈴木会長が言った。

太い幹だけが残る大きな松の木

陸前高田市 一本松 201112-010
立ち枯れをしている幹だけの松は巨大な棒が砂浜に突き刺さっているように見えた。

「この松は生きています」

と書かれた紙が幹に巻かれている。

陸前高田市 一本松 201112-07

しばらくして、鈴木会長が巻かれていたロープをはずし、その紙は無くなった。

陸前高田市 一本松 201112-06

300年後まで一本松の記憶は残る

「これから、高田松原を再生するのに200年300年の長い時間がかかるなぁ。

でも、300年後この松原が元の姿に戻っているのをこの目で見てみたいもんだなぁ」

2時間の対話の最後に彼がそう言った。

「そうですね、是非見てみたいものです。きっと元の姿に戻りますよ」

と僕はそう返事をして、2人で一本松に目を移した。

僕には、緑に覆い茂っている7万本の松の風景がはっきりと見えた。

陸前高田市 一本松 201112-08
別れるとき「手紙を書きます」と僕は言った。

一本松を背にした彼は、笑顔で頷いていた。

会長の小さなバイクが砂利道の上を走りだした。

砂ほこりが舞った。

その向こうでは一本松の悠然とした姿が見えた。

海に吹きすさぶ風が再び僕の耳に入ってきた。

 

2011年12月14日 希望の庭

陸前高田市を訪れて-2011年12月-01
一本松の取材が終えた、2日目の夜、スーパーで買った弁当を温めに台所にいった。

「明日、餅つきをしませんか?」と声をかけてくる若い男の人がいた。

しばらくすると、主催者の方が来たので話を伺った。

どうやら今、被災した土地に花を植えようというプロジェクトを
やっていて、その花壇の近くにビニールハウスを建ててるから
その手伝いをしてほしいということだった。

宿泊先で出会った他のボランティアの方も参加することになった。

花壇と震災当時の写真

陸前高田市を訪れて-2011年12月-06
次の日、8時ごろ現地に向かう。

地元のYさんとプロジェクトのNさんが花壇の周辺を案内してくれた。

花壇が植えてある場所は、海抜から15mくらいはあるだろうか。
そこにあった家の2階まで水がやってきて、海の方へ流されていった。

彼女は、間一髪のところで高台に逃げた。
彼女が撮影した当時の写真は本当に恐ろしいもので、当時の様子を話してくれた。
アルバムと一緒に彼女のコメントが記してある。
それを読むと危機迫る様が伝わってくる。
ただただ無言でその写真をじっと見つめ、
そして、彼女の話を聴くことしかできない。

憩いの場になるビニールハウスを作ろう

陸前高田市を訪れて-2011年12月-07
ビニールハウスは、これからの寒い季節に、
この近所に住む人たちが集まれる憩の場になるように
そして、花壇は希望の場になるようにと願って作られている。

先ほどの場所からもう少し高台にあるこの場所にまで津波が来たという。

作業に取り掛かってから、ハウスはテキパキと建てられていく。

希望の餅つき

陸前高田市を訪れて-2011年12月-08
しばらくすると近所の女性陣が集まってきて
自然に昼食のお雑煮や味噌汁作りが始まった。
花壇には、別のボランティアの人たちが来て、作業が始まった。
昼前から餅つきが始まる。

見事につきあがった餅をお雑煮の中に入れて食べた。
最高にもっちりとした餅は、自然に「うまい」という言葉が出てしまう。

地元の小学生たちと食べた餅の味

陸前高田市を訪れて-2011年12月-09
14時ごろ、近くの小学生たちが学校の授業の一環でやってきた。
明るく元気に「こんにちは!」と声をかけてくる。

第二弾、第三弾とついた餅を、女性陣たちが
手際よく、きなこ、あんこ、大根おろしに絡めている。

小学生たちも、僕たちが手伝いながら餅つきの体験をした。
彼らにとって杵がやっぱり重たいようだった。
餅つきをした後、くばられた餅をニコニコしながら彼達は食べていた。
餅つきをすることは、おそらくほとんどの子が初めてだという。
「ありがとうございます!」と言って、元来た道を学校に向かって戻っていった。

でも、こうして生きているのよねぇ

陸前高田市を訪れて-2011年12月-10
日が暮れ始める16時ごろビニールハウスはみんなの協力のもと
見事に完成した。

中に机や椅子などを入れて、少し休憩をした後、
外に出てからも、少し話が続いた。
「震災からお風呂に入ったのは、1か月してから。
その間、当然化粧なんかもできなかったけど、こうして生きているのよねぇ」
と海をみつめながらYさんが話してくれた。

外はすっかり暗くなった。

先ほどまで、海の手前で工事をしていたパワーシャベルの姿はもう見えない。

海の上には、夕日が落ちたあとの太陽の光が山の上を明るく照らしていた。

 

2011年12月15日 牡蠣養殖場にて

陸前高田市を訪れて-2011年12月-11
最終日、カキ養殖のための筏をつくるお手伝いにいった。

僕を含め、5人のボランティアで向かった。

偶然にも、途中、昨日ビニールハウスを立てたとき一緒だったYさんと出会った。
犬と散歩していて、赤いニット帽をかぶった彼女は、今日も明るく元気な様子だった。

港に到着してすぐに作業が始まる。

筏は女性陣が手伝い、男性陣は、港に打ち上げられている瓦礫を
スコップでひたすら取り除いていった。

10人くらいの地元漁師たちが集まり、カキ養殖の再開に向けて
網や筏を作る作業を黙々と行っていた。

溝一杯に埋まっている海の泥をスコップやツルハシでかきだす。

中からは、養殖で育てた牡蠣や帆立、ガラス破片、アスファルト破片がたくさん出てくる。
この港も、83センチ地盤沈下が起こった。

養殖には自然の厳しさが必要

適度に休憩が入り、漁師の人たちと話をする。

沖に震災後作った筏が浮かんでいた。
500隻あった筏は全て流されてしまい、
現段階で90隻作ったという。

「あと410隻、まだまだやることあるな」
と親方らしき人が僕の肩をポンッと叩いた。

話しの中で、興味深い会話があった。

牡蠣の養殖には、ある程度の自然の厳しさが必要なのだという。

いつも穏やかな海では、美味しい牡蠣はできないのだそうだ。
だから、適度の台風がやってきて、海の中を動かし
塩の淡い上の部分と濃い下の部分をかき混ぜてくれる必要があると。
漁業にとって台風がやってきたら、よくないのだとばかり思っていたので、
目からウロコが落ちる感じだった。

木でもある程度の風や寒さが必要だし、
米も肥え過ぎている土壌では、穂が垂れすぎてしまって
ちょっとした風で倒れてしまい、逆に味が落ちる。

「牡蠣の味が決まるのは、最初の仕込みが一番大事。
人間も同じことだ」

その親方が言った。

港の周辺

昼食後、港の周辺を少し歩いた。

5メートルはある堤防が海の方に倒れていた。
きっと、引き波のときに倒れたのだろう。
厚さは60cm以上はあったと思う。
それが軒並みたおされていた。

その堤防から30mほど海側に行くと
大きく変形した小型のパワーシャベルの重機や軽自動車が
茶色く錆びて、一か所に固められていた。
パワーシャベルの表面には、無数の貝がこびりついていた。
いったい、どのくらい海中にあったのだろう。

午後からも、瓦礫の撤去を行った。
みんなが協力し、きりの良いところまで作業ができた。
途中、筏の作りのための杉材がトラック2台で運ばれてきた。
今さっき、瓦礫を撤去した場所に、その杉が並べられていく。

陸前高田市、滞在最後の時間

陸前高田市を訪れて-2011年12月-12
「どこからきたんですか?」
作業終了後、一番若い漁師が、僕たちに尋ねた。
「僕はドイツからです」
と言ったら、それはいままでで一番遠いところだと驚いていた。

昼までとは風向きが変わり、日がだいぶ傾いてきた。
作業後、みんなで写真を撮った。

車に乗って、港を離れるとき、
先ほどの若い漁師とその先輩、ボランティアの依頼をした漁師の方たちが
「ありがとうございます」と深々と頭を下げて見送ってくれた。

僕たちも「失礼します。ありがとうございました」と車中から挨拶をする。

こちらこそ、とても貴重な話しを聞かせてもらったり、
今回の経験をさせていただいたことに感謝の意を感じずにはいられない。

45号線から見えた2本の松

陸前高田市を訪れて-2011年12月-13
45号線を走り、道の駅の次の交差点を右に曲がる。

海側を見ると、幹しかない松がそびえ、
その右手にはまだ立派に枝が残っている一本松が見えた。

振り向きながら一本松に別れの挨拶を頭で唱えた。

ボランティアセンターに到着して、少しの休憩後
3時半にセンターを出発した。

今回、出会ったボランティアの皆さんとも握手をして、別れの挨拶を交わした。

彼らともまたどこかで会える気がする。

センターの向かい側の砂利の土手を車で駆け上がり
僕は仙台に向けて、ハンドルを右に切った。

 

大震災で見えてきたことと忘れない記憶

陸前高田市を訪れて-2011年12月-14
東日本大震災から1年が経ちます。

あの日以降、自然の脅威や原発のありかた、
マスメディア、政治のことなどいろいろなことを
考えさせられるようになりました。

津波の爪痕も原発問題もまだまだ終息していません。

「台風がやってきて、海の中を動かし
塩の淡い上の部分と濃い下の部分をかき混ぜてくれる必要がある」

牡蠣養殖の港で親方が僕に言った言葉を思い出します。

今、僕たちにできることの1つは
あの大きな出来事を「忘れない」ということです。

2012年3月11日
大黒 貴之

Author by gross-schwarz

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