何かを失った時の悲しさはどこからやってくるのか?池田晶子氏の墓石の前にて。

文筆家、池田晶子氏の著書「14歳からの哲学」の中で
「人はなぜ自分の大切な人がいなくなると寂しいのか、悲しいのか」
という問いを立てていた。

彼女によると「それは自分がその人の中に反映されているから」だという。
自分の存在が第三者の中に入り込んでいる。

つまり、自分にとって大切な存在が自分の前から
いなくなってしまうことは「自分の一部が無くなってしまう」ことと
同等なのだと彼女はいう。

その事に対して、悲しくなる、或いは寂しくなるのだと。

その対象は人間だけはなく家族として
暮らしている動物や思い出のある物に対しても
同じことではないかと私は考える。

デカルトは「我思う、故に我在り」という言葉を残したが、
我の存在は、曖昧なものなのかもしれない。

我と他者の存在の境界線はどこにあるのだろうか。
池田氏によると、我が死んでも他者の中に我は生き続けることになり、
死という現象はなくなるという。

そう考えると、生と死は等価であると言えるのかもしれない。

2020年2月、私は池田氏が眠る青山墓地へ一人向かった。

2月にしては暖かさを覚える日で、歩いているとジワリと汗ばんでくる。
東京の摩天楼がまるで墓地を包み込むように四方に広がっている。
青山墓地の中には、いくつかのベンチがあり休憩場所になっている。
そこでお弁当を食べたり、本を読んだりしている人がいることに少し驚いた。
私の中にある墓地のイメージにはそのような光景がないからだ。

人は自分の経験や知識にない事象を目の当たりにすると、
驚きや戸惑い、或いは不安を覚える。

摩天楼とその光景が視界に入ってくる中、
この空間の時間だけが止まっているように感じる。

摩天楼はごうごうと「生」のエネルギーがみなぎり、
墓地にはただただ「死」の沈黙が張り詰めている。

墓地に入ってからどのくらいの時間が経っただろうか。
ようやく見つけた彼女の墓地の前に立つことができた。
「14歳からの哲学」を読んだのは、確か学生の頃だったと記憶している。
それから彼女の他の著書を読んだり、
出演していた番組を見たりもしたが、
なぜか先述の言葉が今も強く脳裏に残っている。

彼女が残した墓碑銘が目に映る。

「さて死んだのは誰なのか」


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