REVIEW

評論家、学芸員、ギャラリストなどからの論評です。

日本近世美術史研究者(博士)|平木しおり

「両義的な存在をとらえるということ」
日本近世美術史研究者(博士)
平木しおり

大黒貴之 「GARDEN」
2023年11月17日〜12月9日
MARUEIDO JAPAN
東京

今回の展覧会の題名をGARDENと聞いて、最初は意外な印象を受けた。庭にはいつも矛盾がある。それは、自然のものを使って自然らしく作った、どこまでも人工のものであるということである。例えば、大黒の序文にある回遊式庭園は、江戸時代では日本や中国の名所を摸したものが作られることが多かった。これらはどこまでも人間の視点で選ばれた場所のため、自然そのままというものではない。一方、大黒の作品は自然の根源的な姿を思わせる形が多いため、庭とは相容れないのではないかと当初疑問に思ったのである。しかし、これまでの展覧会カタログやポートフォリオ、そして大黒の文章を読んで、この題名がぴったりなのではないかと思い直した。

自然と人工。よく対立的に捉えられることが多いが、はたして両者は本当に相反するものだろうか。そして、そのように対立的に捉えられるほど、我々は自然を客観的に捉えているだろうか。先ほどの名所でいえば、日本の名所は和歌の伝統の中で選ばれたものが多い。ある地名が別の言葉と音が通じるという観点等から選ばれ、そこに感情、季節、情景などが詠み込まれていく。名所を選んだ平安時代の貴族たちは、京都を離れることはそうなかったため、和歌を詠むときには屏風絵を見ながら名所について歌を詠んだという。とすると、そのイメージはそもそもどこから来たのだろう。歌を詠ませる何かがその場所にあったかもしれない。このように、名所は自然であり人工でもある、両義的な存在である。自然は人間に作用し、そして人間も自然を作り変えていく。

大黒は、彫刻作品を作るときは常に木との対話が重要だと言う。どのような木材を使うのか、それに適した形は何か、工具はどの角度で入れるのが適切か、木目をどう生かすのか。材料のマテリアリティ(物質性と訳されるが、その材料が持っている特性という意味で使われることも多い)を考えることなくして、彫刻は生まれない。大黒はその対話を重ねながら、自然の存在を咀嚼して形にしている。完成した作品は、彫刻家の手を通じて取り出された自然の要素のようで、私たちに自然を見えやすくしてくれている。それらが並ぶ今回の展覧会は、名所を摸した場所が続く回遊式庭園とも通じ合う。

これまでにも、大黒は二つの対立するものを取り上げながら、その両義性を包括するように作品を作ってきた。これは、大黒がFolded Drawingと呼ぶ一連のドローイングにも通じる。初めて大黒のFolded Drawing を見たとき、一体これは何でできているのかと戸惑った。それが紙または金属板でできていて、しかも折りや塗りの工程を経たものを複数枚重ねているということを知ったときは驚いた。1960年代、画家のルチオ・フォンタナはキャンバスに穴を開けて、二次元と三次元の間にある絵画の両義性を問うたが、フォンタナの作品では切れ目の奥には網が張られている。これにより、絵画の画面によって区切られた前後の空間を意識せざるを得なくなり、結果絵画の二次性を強調している。これに対して、大黒が作り出した無数の線や穴は、三次元を目指すものである。山折りの線は盛り上がって前へ押し出されて表面に留まろうしているように見える。一方、紙をわずかにずらすことで、穴はまるで生き物の細胞組織を上からのぞき込んでいるような感覚を生じさせる。材質の違いから他の彫刻作品とは異なるように見えるが、自然の要素を捉えているという点では一貫しているのではないだろうか。一歩踏み込んでみると、彫刻作品が自然のポジフィルムなら、Folded Drawing はネガフィルムのように思える。

大黒は、Folded Drawing に意味はないと言う。たしかに、ここには意味を持ったモチーフはない。あるのは幾何学的な図形のみ。ところで、素材の可能性の探究、特に紙を紙らしからぬものに変えていく手法、そして絵画的でもありかつ彫刻的でもあるものを作り出す手法は、近世までの日本美術にも通じるものである。屏風がその一例で、ジグザグに折って立たせて使用する面には、絵や書が書かれ、主に調度品として使用されてきた。モチーフを盛り上げて金箔や銀箔、あるいは金泥、銀泥を使って覆い、立体的に表したものも多く存在する。その中には絵画的に鑑賞できるものもあるが、ただただ金や銀のメタリックな輝きに魅了され、モチーフの意味が遠のいていくものも多い。様々な寸法のものがあるが、置かれることで空間を別のものに変化させ、暮らしを彩ってきたのはどれにも共通する。今回の展覧会では一室にFolded Drawing を集めて展示するとのこと。そこにどのような空間が現れるのか楽しみである。

回遊式庭園をモデルに構成された今回の展覧会では、鑑賞者は大黒の彫刻を様々な角度から眺めることができる。一つの作品をじっくり見てもよいし、展覧会全体を見通して、部分が作り出すリズムと全体との調和を眺めてもよい。作品の展示には計算された高低差も付けられているので、まるで山あり谷ありの旅を疑似体験することができるだろう。そして、その経験には一つとして同じものがない。回遊式庭園を完成させるのは、自由に歩き回る主体的な鑑賞者なのだから。

福元崇志(国立国際美術館 主任研究員)

「敷居の上の造形ー大黒貴之の制作について」
福元崇志(国立国際美術館 主任研究員)

個展「A Part for the Whole 」
2020年12月8日 – 12月25日
MARUEIDO JAPAN
東京

黒く直線的な鉄枠にぶら下がる、白く曲線的な彫刻。房状に増殖するそれは 細胞のような、果実のような、あるいは男根のような……と、さまざまに連想 を誘うが、おそらくどれも正解であって、正解でない。「自然の構造」を観察 し着想を得た、と作者自身が言うのだから。いや、何を表象しているのかは、 このさい問題ではないと考えるべきか。重要なのはむしろ、異質なるもの同士 の並存、作品に内在する種々の二極構造である。アルベルト・ジャコメッティ のシュルレアリスム時代を彷彿とさせる鉄枠も、ここでは内側からの膨張と外 側からの収縮という、緊張状態を生み出すための装置として機能している。

彫刻家の大黒貴之は、このように煮え切らない。「AかBか」をはっきりさせ ず、ひたすら「AもBも」であろうとする。物事を二つに分けるという、とりわ け西洋において馴染み深い思考図式は、往々にしてある種の暴力に帰着してし まうからだ。たとえば真偽、善悪、美醜、また心身、主客、公私、等々。分け ることで、世界はたしかにすっきりと整理されるが、そのとき、優位に置かれ た一方が、劣位に置かれた他方を排除しようとするだろう。それを回避するた めには、敷居のうえに踏みとどまらなければなるまい。白黒をつけず、白と黒 とのあいだを行ったり来たりしつづけること。鉄枠に吊され揺れる彫刻は、そ んな彼の根本姿勢を体現していると言えそうだ。 もちろん、2017年から精力的に手がけられるフォールド・ドローイングの連 作、つまり「折りたたまれた線描」群も、その延長線上に位置づけられる。幾 百幾千と重ねられ、もはや色面と化した鉛筆の線と、支持体の紙それ自体に手 を加えてできた、「折り目」としての線。折り紙や紙細工のようなその制作は 紙に凹凸を与え、彫刻的な相貌を作品に付与するだろう。描線と色面、平面と 立体といった二極の敷居の上で、ドローイングは揺らいでいる。やはりと言う べきか、大黒のねらいは何かを描き出すことではない。種々の緊張に引き裂か れんとする紙上、手の動きの痕跡から何かが立ち現れてくるのを、彼はただひ たすら待ちつづける。

SEMJON CONTEMPORARY | H.N.SEMJON

大黒貴之 「フォールド・ドローイング」
2018年6月8日〜7月14日
SEMJON CONTEMPORARY BELIN

2011年にギャラリーを創立して以来、当ギャラリーのアーティストである大黒貴之は、2017年春のグループ展「Penetrating Paper : Cut – Perforated – Folded…」 において、フォールド・ドローイング作品を初めて紹介した。以来、大黒はこの新しい創作分野 に以前にも増して集中的に取り組み、今後も見る者をあっと言わせる 作品を創出するに違いない独自のフォールド・ドローイングの世界を創り上げた 。

こうして今回初めて、最近の創作活動で生まれたまとまった数の作品を揃えることができた。アートフェア「paper positions berlin」では、大黒のフォールド・ドロ ーイングをギル・シャハーの作品と対峙させたばかりだ。

シリーズのメインとなる作品は、数多くの小さな正方形のフォールド・ドローイ ングで構成された180×283cmの三幅対「RGB」である。個展の招待状の内 側を見ると、作品のサイズが見て取れる。そこには、 触感と質感が伝わってくるよ うな光沢に包まれた大黒が作品の前に立つ姿が写っている。

この作品は、遠くから見ると、菱形格子模様の浮き出し加工を施し、ニスを塗っ た革壁紙のようである。格子模様の線に当たる部分は、紙を折っていることが分か る折り目部分であり、 空間に立体的に浮かび上がる。 三幅対の線の色は一幅ごとに異なり、 左幅は緑、中央幅は赤、右幅は青である。そして、格子の線の色 (red, green, blue)から、「RGB」という短い作品名の謎は明らかになる。また、制作の最終段階でグラファイト鉛筆を使ったことにより、菱形の表面は革のような光沢を帯び、少しメタリックな輝きを放つ 。しかし、表面の全ての部分がこのように 仕上がっている訳ではない。実は正方形の紙の中央には赤、さらに部分的に緑の下 塗りが透けて見えるのだ。赤、緑、そしてメタリックなグラファイトの黒が、菱形の線の色に縁取られ、紙ごとに異なる 有機的なモチーフに強調されながら、もつれ合い、入れ替わる。大黒の抽象的且つ有機的なドローイングを見てきた者なら、遅 くともこの辺で「RGB」が彼の手によるものであることに気付くだろう。大黒は、 おそらく下塗りした色が乾かぬうちに、鉛筆で有機的なモチーフを刻み込み、グラ ファイト鉛筆でのドローイングの精緻さよりも、三幅対というこの作品の本質的特徴を重視した。そして、色が乾いた後、強弱差をつけてグラファイト鉛筆を塗り、 複雑な輝きを放つ魚の鱗、あるいは革の壁紙を彷彿させるような、ダークな色合いが揺らめく表面に仕上げた。こうして、もとの紙は制作の過程ですっかり紙としての本来の特徴を失い、見る者が思わず手で触れたくなるような新たな素材へと変化 した。人には視覚だけではなく他の知覚が備わっている。事実、「paper positions berlin」の会場では、この作品の素材を確かめようと、 さっと手を伸ばそうとする人々をよく見かけた。

彫刻家の大黒が、(二人だけ挙げるとすれば)ウルズラ・ザックスやギル・シャハーといった当ギャラリーの他の彫刻家同様、紙を素材とした作品制作に取り組むことになったのは、実はごく自然の流れだと言えるだろう。フォールド・ドローイングという新たなジャンルの多様性は「RGB」に集約されている。また、その多様性は、同時に数多くの小さな作品においても様々な形で見て取ることができる。 まっすぐ水平に折り目をつけると段やジグザグ型になり、シャープな直角の線が浮かび上がるが、紙の端まではいかない、内側部分にのみ折り目をつけると、 非常にユニークな隆起と窪みの「ランドスケープ」が誕生する。

大黒は現在、フォールド・ドローイングの世界が持つ可能性を探求している最中である。 そう、それはまだ始まったばかりなのだ!

ストリートサロンでの大黒の個展と並んで、隣接スペースでは内倉ひとみの個展 「Lumière」も同時に開催されている。内倉もまた大黒と同様、紙ベースの作品を展示している。二人の作品は、芸術的アプローチの仕方こそ違いはあるものの、アー トの素材、そしてインスピレーションの源として、紙がいかに日本文化に深く根付 いているかを物語っている。

2018年5月

セミヨン H.N.セミヨン

Tip | Iris Braun / イリス・ブラウン

「Tip」2015年5月21日~6月3日号 ノート11・86頁
“Outdoor in Havelland” / ハーフェルランド郡の野外にて

大黒はブンランデンブルク州に数年間在住し、ハーフェルランド郡のフリーザック市で作品を制作をしている日本人作家である。

彼はランドスケープパーク・ヴァーゲニッツにおいて、日本での経験とドイツ庭園の文化伝統を結びつけおり、その概念は木や紙の彫刻の中に注ぎ込まれている。それらは、夢の中にいるようなランドスケープパーク・ヴァーゲニッツの中に大変適合する有機的フォルムとなって表現されている。つまり、この作家のライトモチーフ(根底にある思想)である「生成と消滅」「時間と空間」などの関係性を、この場にある周囲の木々や深緑などの自然と絡めてうまく追体験させているのだ。d

大黒は、今年開催されているブンデガルテンシャウ(連邦花博覧会)の付随プログラムであるこのプロジェクトを 3 年かけて準備を行い、そして、この間、これまでに制作した作品を屋外展示に耐えれるよう効果的な転換を可能にした。

 

German Newspaper Der Tagesspiegel | Christiane Meixner / クリスチアーネ・メイキシィナー

(ベルリン日刊紙)ターゲスシュピーゲル
2013年8月10日
「室 内 園」
ギャラリー “セミヨン コンテンポラリー” の大黒貴之展

オープニングに花を! 大黒貴之は自作の彫刻の横に華奢な挿花を置いている。この日本人作家にとって、ギャラリー セミヨンコンテンポラリーでの個展は初めてのものであり、あたかもそれに感謝の意を示すかのように、彼は、オブジェ、枠、花、海藻のような植物、果実、など、独特で包括的な作品の構成をしている。ただし、これらは総て自然の素材である木で作られているのである。

1975年(原文のまま)生まれのこの作家は、幹や太い枝をシュールレアリズムのオブジェを思わせるような、個性的で繰り返し現れる原型に切り分けている。和紙と茶色味を帯びた着色液で簡単な素材を作品に仕上げるのだが、これによって大黒は、奇妙な、そして同時に人を惹き付ける室内空間を造り上げている。部屋と庭と若木箱と抽象的彫刻の混合とでも云おうか。選ばれたドローイングがインスタレーションと共に展示されていて、ここでは決して偶然に任せるようなことはしていないことが分かる。それとは反対に、作品の与える脆く仮初めだという印象は、綿密な準備によって作られたのである。

この作家には、彫刻のアンビバレントな性質についての熟考がどうしても避けられないのだ。彫刻が倒れることなく、どのように空間を占めるか、どれくらいの量感になるのか、理論的にはどこまで広げられるか、等々。ここで大黒は、ブランクーシの作品「無限柱」への高い評価を示している。展覧会のタイトル “連綿 – 途切れることなく” は同じ方向を示しており、生成と消滅をテーマとしているのである。
cmx(著者Christiane Meixnerのイニシアル)

 

SEMJON CONTEMPORARY | H.N.SEMJON

個展「連綿 – ununterbrochen」(彫刻・オブジェ・ドローイング)
2013年 
Semjon Contemporary Berlin
2013年7月19日 – 8月17日

「連綿 – ununterbrochen -」は、ハーフェルランド郡ラーテノウ市在住の日本人彫刻家、大黒貴之がセミヨン-コンテンポラリーで行う初めての個展である。

この作家の起点はいつも木という素材である。まだ樹皮が着いたままの木の幹やがっしりした枝を使い、それを独自の”原型”に切り分けていき、さらにそれらを組み合わせてあたらしい形を造り上げる。それから和紙と柿渋(下記の酵素から作られる茶色の天然着色液)で手を加えていくのであるが、その過程で形と内容をどのようにするかが決められていく。そしてその結果、自然の単なる模倣ではない蕾、花、果実が、抽象的で符号によるメタファーのようなものとして表されている。

彼は、自然と人の手に成ったものを繋ぐという日本の伝統を踏まえていて、我々に禅の庭園を思い起こさせる。しかし、そこで彼は自身の表現言語をはっきりと示し、伝統を踏まえながらも、それから独立した独自の言葉を見つけると云う新しい文脈の中に自分を位置づけている。自然の中にある形を取り上げても、それを単に再現するのではなく、常に変形し再編成している。それにより、文化による制約を受けない普遍的な関連付けを可能にしているのである。彼の作品は慣れ親しんだものだという感じを与えると同時に、異質だとも感じさせる。

ドローイングは、自然から借りてきた、または彼がそう解釈した自然の形の抽象的符号を思わせる独立した作品であるが、立方体の鉄枠の内やテーブル/棚のような台座の上に展示された彫刻とそれらドローイングの間に生じる緊張感の場となった展覧会は、一種独特に構成された庭園を散歩するような感じを訪れる人に与えるのではないだろうか。

美術史上で問題となった彫刻と台座の相関関係の扱いにおいても、次のような側面がより豊かさを与えている。それは、人の手になる個々の形が、さらに大きな(やはり形成された)全体の文脈の部分をなしている日本庭園の歴史とその受容を示唆していることである。

空間を大きく占め、高さを強調した台座の構築は、また、住居のような親しみ易さと機能的な冷たさという相反する感じを同時に与える空間であると受け止められるかもしれない。ここでさらに新しい広がりが展開し、想像の中での庭園は他の位相へと運ばれ、平面上で配置されたものが高さという次元でも仕立てられていることにより、踏み均された”ものの見方”から離れて新しい可能性を見出す道が示されているのである。

「連綿 – ununterbrochen -」は、生成と消滅、破壊と再建が永遠に続くサイクルのメタファーとして理解することもできる。

ベルリン 2013年6月

フィリップ ツォーベル / H.N.セミヨン

翻訳 藤江ヴィンダー公子