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彫刻家の大黒貴之(@takayuki_daikoku)です。

以前、知人のドイツ人が「この世の全てには、”CODE”(記号)がある」という話をしてくれました。つまり世界には共通の規則性があると彼はいうのです。私たちが普段使っている言葉のコードは何でしょうか。例えば、それぞれの国の文化や習慣の中にあるコード、芸術作品と鑑賞者を結ぶコード、現代アートの中にあるコード、自然の中にあるコードという目に見えない構造が世界にはあるのだと思います。

「空気」を読む日本人、「論理」を構築するドイツ人

日本人は、自分の感情を載せて伝えることはとても上手だと思います。古から自然の中の木や水、火や石などにも神が宿るものとして私たちの先祖は生活をしてきました。その象徴の1つとして、大木や岩などに「しめ縄」がまかれています。日本では、人も自然の一部であるし、人も動物の一種だと言ってもそれほど疑問は持たれませんが、先のドイツ人に、人も動物の一種だというと驚かれたのを憶えています。犬は犬だし、木は木であるし、鉄は鉄なのだそうです。だから、その中には魂は宿らないものだとされているようです。

日本人は「いただきます」と 食べるものに対して声をかける素晴らしい習慣があります。一方、ドイツ語にも食事をする前に「 Gute Appetit(グーテ・アペティート)どうぞ召し上がれ」といいますが、これは、第三者が食べる人に対していう言葉であり、食べ物自体に言うものではありません。「空気」を読む日本、「論理」を構築するドイツという印象でしょうか。

日本人は昔から石や木、水などに神が宿るという多神信仰にみられるように、自分を他者に置き換えることが得意な性質があります。また八百万の神信仰は、石や木などの自然の中に神のような存在があるという空気を読みっとっていたのではないかと考えられます。しかし、この「空気」というものが、日本の良いところでもあり、同時に、弊害にもなっているように思います。

自分の意見や意思が尊重されるドイツ文化

ドイツ人はよく「あなたがやりたかったら、やってください」という言い方をします。要するに、その人の意志を尊重しているのです。ドイツでの意思のやり取りはとても合理的に思えます。
「基本的に自分の意見や意志が尊重されるので、それぞれが意見を出し合ってその論拠を上げていく。そしてそれが間違っていたとしても、自分より正しいと思った意見を今度は尊重するんだ」と先のドイツ人は言っていました。ガチガチの論理を並べると同時に、その意味では柔軟でもあるように思えます。逆にいうと自分の意見がはっきりとなければ、ほんとうの意味でのコミュニケーションが取れないに感じます。

ドイツに住むうえで、なんとかして自分の意見を外に出すことはとても重要になってくるので、上手にドイツ語が話せなくても、その意見に耳を傾ける人は多いように感じました。決して強制はしないし、良い意味での個人主義なのです。これは、ドイツの基本憲法でそう謳われています。仕事でもサービス残業などいうものは存在しません。定刻が来れば、さっさと帰宅します。基本的にルールには原則的にしたがって行動するのが、ドイツ人の気質のようです。もちろん、彼らも感情を持った人ですので、子供ような行動や非論理的な行動をとることもしばしば目の当たりにしました。それに周りの「空気」を読んで動くこともあります。

日本人の空気を読むことの短所と長所

日本もドイツも憲法には、基本的人権や国民主権が謳われています。日本の場合は、ここに日本独特の「空気」というものが流れているので、ルールと空気の兼ね合いがとても特殊なのだと思います。富国強兵を大義にして戦争に突入していったのも、満場一致ではないと前に進まない特殊な会議にしても、村のしきたりというものにしても、サービス残業にしても日本という土地柄が醸し出す「空気」が発生させているとよく言われます。

しかし、この空気を読んだり感じることは日本独自の素晴らしい文化や歴史を培ってきたというのも事実です。日本人は、自分のことよりも、世間と周囲など 自分よりも外に気を配る傾向にあります。これが侘び・寂びの精神や阿吽の呼吸という言われる伝統を生み出し、また世界最高峰のサービス業を育成させました。店員さんの対応や時間をきっちり守ることやきめ細かな気配りを提供する日本企業や人々のサービスは本当に素晴らしいもので世界的に類をみないそうです。

ノーム・チョムスキーの普遍的文法:言葉の更に下にある非言語コミュニケーション

このように言葉やデザイン、建物や習慣、食べ物や人の思考など日本とドイツにはたくさんの相違点が挙げられます。しかし、双方に共通する普遍的なものが存在するのだと私は感じます。言語学者のノーム・チョムスキーは、人間は「普遍的な文法」を備えていると言いました。各言語のもっと深いところに共通する言語があると。何か言葉が通じなくても、接していて楽しいとか なぜか自分の意思が通じるものがあるという経験はありませんか?言葉は違っても相性のある人はいますし、同じ日本語で会話していても、全く合わない人もいます。私は、そこに「コード」という人間が共有する普遍的なものが介在しているのではないかと推測します。

人が持つ一つの表現手段としての現代アートという芸術の1ジャンルにもコードが存在するのだと思います。絵や彫刻、音楽、舞台などのアート(芸術)表現は、共通する言語だけでなく、それぞれ視覚、聴覚に訴えかけるもので、これらのアートはコミュニケーションです。

先のような日本独特のオリエンタルな、国内だけのコードではなく世界に共通するコードを持った作品をつくることを私は探求しています。自分の軸を持ちつつ、日本とヨーロッパという異文化の特質を 共在させた、そしてとてもシンプルな表現言語を用いたもの。味覚、美意識、思考、教育、土地の及ぼす影響などそれぞれの国の人たちが感じている五感は違います。だから、現代アートを見てみてもそれぞれの国の作家の作品の傾向が違いのは自明のことです。

しかし、その相違からもっと深いところにある「本質的な何か」をアーティストは見つめ、探求する必要があるのではないでしょうか。世界的に活躍している現代アートのアーティストは、それぞれの国の良さを持ちつつ同時に世界にも共通するコードを知っている人たちだと私には映ります。


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その1つの概念に「侘び寂び」の美意識があります。



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