なぜ大黒貴之は2001年にベルリンに渡ったのか?アーティストとしての第一歩を考える
彫刻家の大黒貴之(@takayuki_daikoku)です。
私が初めてヨーロッパに降り立ったのは、2001年初冬の頃でした。右も左もわからないベルリンのテーゲル空港に降り立ち、ゲートをくぐると「Takayuki Daikoku」という紙を持ったホームステイ先の中年のドイツ人男性が待ってくれていました。あの時の未知なことへの不安感と戸惑いは忘れられません。
よく「なぜベルリンに向かったのですか?」と質問を受けます。今回は、その渡独前の心境とベルリンを選択した理由を記録します。
いったい自分は何者なのだろう?と深く考えた時期のこと
Photo by Jonas Stolle on Unsplash
大学院を修了し、実家に戻っていた時期がありました。いざ学校の外にポンっと出てみると、周囲はすでに就職をしたり、実家の家業を継いだり、あるいは結婚する同年代がいました。かつて志を共にした盟友は遠くに離れ自分の周りには誰一人いなくなりました。
心に不気味な大きな穴ができて、「いったい自分は何者なのだろう?」と自己嫌悪に陥ったり、自分の存在価値を見出すことが難しかったことを憶えています。今、振り返ってみると、悪い意味での孤独感を持ち、消極的になっていて、決して良いとはいえない暗い精神状態が約半年ほど続きました。
目標は外国で全てゼロから出発し展覧会を実施する
Flora at KioskShop berlin, 2003, Berlin
学生のときから海外に渡り、一度、勝負をしてみたいと願っていました。「行くのなら今だ」その場所から逃げ出したい卑怯な気持ちと未知なる海外で挑戦したいという気持ち。それらが、複雑に絡み合い、言葉にできない何かが内から込み上げ、私を駆り立てました。
「人脈もなく言葉も分らない海外で全くゼロからスタートして、展覧会を実施する」それで何もなければ、作家としての運はない。だから違う道を進もうと決心していました。
行く先は、ドイツのベルリンを選択しました。ヨーロッパの現代アートの中心地であることと特殊な歴史背景がその理由にありました。当時、ベルリンは東西ドイツが統一して、10年以上が経過したころでした。また、西ドイツのボンと東ドイツのベルリンに別れていた首都が、ようやくベルリンに再び返り咲いた頃でもありました。
そして、ヨーロッパがEUという巨大な組織になる前の年。急ピッチで進む建築ラッシュや、東西の格差を埋めていく制度の制定など特にベルリンは、その都市自体が東西に分裂していたという特殊な立場だっただけにまだまだ、混沌としていました。しかし、その混沌とした状況だからこそチャンスを得ることができるかもしれない。
そのような希望を胸に刻み、10000キロ離れたドイツに向け一人日本の地を離れました。
ドイツ出発の朝、親父と交わした言葉
「頑張って来い!」出発当日、実家の玄関で、親父が僕のお尻をポンッ叩きながら飛ばした激励。その時、握手をした彼の手の厚みとぬくもり。
「何もなかったら、電気工事士、継ぐわ」自分の言葉に苦笑いを浮かべる彼の姿がありました。
2001年10月末、もう肌寒さを感じる季節でした。
こちらはベルリンに渡った時のことを説明する自身のインタビュー動画です。
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